長男くんと通塾していない子

2022年11月4日金曜日

生活

険悪なムード

最近、長男くんのクラスでは、少し通塾組と非通塾組とで諍い?があるらしい。
あの『悠久』ですら気づくほどなのだから、事態は思ったよりも切迫している可能性すらある。

幸いなことに、と言ってしまっていいものかは迷うが、長男くん自体はあまり巻き込まれてはいないようだけど…?

状況

なにやら長男くんのクラスメイトの通塾組である男の子が、軽く?からかわれているとか。
からかわれている、というのは長男くんの評価なので、実態は分からない。

長男くんにはもともと苦手なクラスメイトもいるそうで、その子がからかう側らしい。
だから、悪い方のバイアスがかかっている可能性もある。

まぁ、我が子に被害が及ばなければ特に何をする気もないし、別にどちらとも親が知り合いというわけでもないので、何か対応するというのも筋違いなのだろう。

からかい、といっても、内容もよく分からない。
「アイツが勉強できるのは塾に行っているから」みたいな言葉らしいけど、本人に言っているのか、陰口なのかも不明。
いずれにしても、長男くんが聞いていて気持ちのいい話ではないとは思う。

対応

まぁ、そういう子っていうのもいるものだよね。

「そーなんだよ!なんでそういうこと言うのか、全然理解できないよ!」

おぉ、結構憤慨しているな。

まぁ、考えられる理由として、勉強できないのが悔しいとか、からかうのが面白い、とかなんじゃないか?
そんなことをしても自分が何か変わるというわけではないし、暇、というか。
されている方が嫌がらせに感じているなら、なおさらやるべきではないことだろうなぁ。

とりあえず、クラス全員と仲良くできるわけでもなし、あまり付き合わないようにすればいいんじゃあないか?
どこの環境にいっても、付き合いたくない人というのはいるもので、そういう人と最低限のつながりの中で生きていくのも人生に必要なスキルだぞ。

「んー、わかった。でもなぁ、見ているのもイヤなんだよねー」

たしかに、そういうのが目の前で起こるだけでイヤっていう気持ちは分かるけど、だからといってそれで衝突していたらキリもないし、お前が疲れてしまうぞ。
世の中には、反省という言葉とは無縁で刹那的に生きていくヤツもいるんだ。

ちなみに、これから小学校高学年に中学校と進んでいく中でそういうのの程度は増していくし、教室内にそういうのが2,3人いるだけで授業は崩壊するからな。
パパが通っていた中学校なんて、まぁひどいもんだったよ。

二男くんのいる場でまだあまり言いたくはないけど、それがお前たちを公立に行かせたくない理由でもある。
パパが自分の通った公立中高で学んだ最大の事柄は、「勉強を頑張りたいなら、この環境に近づくべきではない」だ。

公立のいいところは、「価値観は多様である」と学べるとともに「世の中には近づいてはいけない、相容れない価値観もある」という教訓が得られるところかな。
公立、でひとくくりにするのも違うのだろうけど。

とりあえず、イヤなこともある中で、最終的にどうなっていたいのか、何を一番重要視するか優先度をつけて考えるといいぞ。
お前の理想全てを実現する必要はないし、いつもそれをしようと思うと疲れてしまうからな。

塾に行かない子

子どもにはそんなことを話したものの、まぁ私は塾に行っていない側の子だったので、「塾に行っているから頭がいい」的なことを言いたくなる側の気持ちも若干分かる。

学校だけで勉強している側としては、なんとなく塾で習ったこと使うのってズルい、っていう感覚。
学校の中で習ったことで競うのがテストなんじゃないの?みたいな、誤解。

親への「XXXくんはいつも勉強できるんだよ」といったお話に対して、「あー、あの子は塾に行って(がんばって)るからねぇ」というような返答を、「塾っていうのは通ってさえいれば自慢できるくらいに頭が良くなるらしい」みたいに解釈してしまう。

実際には、学校の勉強において学校で習ったことだけを使わなくてはいけないなんていう決まりは通常ない。先生から言われない限りは。
それに、仮に塾で習ったことを使うとしても、それは単にボケーっと塾で聞いたことを使っているのではなくて、設計図だけ渡されて血反吐を吐きながら作ったものを使っているだけなのだけれど。

ただ、小学生にはそれを想像するのは難しいだろう。
多くの子は「なんかズルい」という気持ちを持ってしまうのは恐らく仕方ない。
その気持ちが攻撃に向かってしまう幼い子もいるだろう。

二月の勝者でも「勉強が出来る子もスポーツが出来る子と同じように褒められるといいのにね」みたいな会話があった気がするけど、そんな風にならないのは当然だ。
多くの子にとって、学校で、スポーツは「出来ればなおいい」程度の事柄だろうけど、勉強は「出来ないといけない」という感覚を植え付けられるのだから。

自分が「最低限の基準は越えている」、「出来なくても気にしない」という状況でなら、スゴイ出来る子に対しては単純に「スゴイなぁ」で済むかもしれない。
でも、自分自身が「出来なきゃいけないんだよなぁ」と思っていることを、軽々と超えていく人間に対しては、羨望だけでなく、嫉妬といったマイナスの気持ちも吹きだすだろう。

その気持ちに拍車をかけるのが、学校での教育思想、底上げを図るスタイルだ。
全員を最低限のラインまで引き上げることを第一目標にする以上は、一番注目され手厚くされるのは、その最低限に達していない側。

そういうときに、出来すぎる子・それでいて注目を集めてしまう子は、指導側にとって、はっきり言って要対処な存在。
最低限のラインまで全員を、を優先したいときには、「分かっているなら黙ってて」というのがまかり通ってしまう。

まぁ、そこからさらにその子達にも学びが与えられるかが指導者としての力量なのだろうけど。
でも、学校教育の目的が「出来る子をドンドン伸ばす」でないなら、それが二次的な目的になってしまうのは、仕方のないことだ。

そんな「分かっている子なら少し放置していい」みたいな状況から、子どもはまた「塾に行っている子には少しくらい冷たくしてもいい」みたいな誤解もしてしまう、かもしれない。

そんなわけで、こと勉強においてだけは、「出来るからといって褒められない」という図式が完成してしまう、のだろうな。

仕組みは分かったとして、私は他人に悪意を向けて生きていきたいとは思わないけれど。
そんな暇なことするなら、国語の読解方法の教え方考えるわ。

まぁ、そんな悪意のある環境で、それにさらされてしまうと、ストレスはたまるものだけれど。
私も学校は人相応に嫌だったはずだったけど、小学校のときとかどうしてたっけ?

といっても、もうここまでで原稿用紙7枚程度。
昔話を思い出していたら、全部で6500文字超にもなってしまった。

さすがに記事を分けよう。

というわけで、次回予告!
はむ少年の愛らしい小学生時代。

「この世で最も役に立つもの、それは科学」