パパと伴走

2022年10月15日土曜日

生活

中受の伴走

中受で、伴走でいくか、自走でいくか。
色々なところで意見を見かける。

どちらにもメリットはあるだろうし、デメリットもあるだろうと思う。
ただ、私にとってはあまり意味のない質問だ。

だって、答えは、ねぇ。

そんなことをポケーっと運動会の待ち時間に暇つぶしに考えてみた。

親の中受への取り組み方

親の関わり方、伴走に自走、と一口に言ってもいろいろあるだろう。

本当に何も親は関わらず、子どもが全て管理までする自走。

長期的な方針くらいは親が考えるような自走。

配布物の管理や短期的な方針は親が考えるような自走。

自走、というとここら辺くらいまでかな?

子どもが分からないと言ってきたときだけ対応する伴走。

基本的には子どもにずっと付いて指導するような伴走。

テストの振り返りも手伝って、本人の気付かないような問題点を親が指摘してあげるような伴走。

長短期の学習予定立案、勉強指導、テスト対策、振り返り、過去問分析、成績分析、テキスト分析、塾面談での相談事項検討、参考書情報収集、補助プリント作成、その他もろもろと携わる、私のような『こちら側』。


ただ、まぁ私的な結論としては、『それぞれのご家庭が良いと思う形でやればいい』でファイナルアンサー。

通塾しているなら塾の特性も様々、親子関係も様々、親側の状況だって様々、子どもの性格だって様々。
そんな各家庭の事情が様々な中で、自走が良いか・伴走が良いか、ということに一般的な結論を出すことこそ間違っていると思う。

我が家の事情

中受なんてよく分からず入塾させたような、ほんわかとした私が『こちら側』に来てしまったのは、『悠久』こと我が家の長男くんの事情が強い。

当時は信じられなかったけれど、彼は一人で答え合わせが出来なかったのだ。
解答が難しいとか、そういう理由じゃあない。

問題と解答の冊子、たとえば「計算と漢字」を用意した上で、問題を解いてもらう。
その問題の、解答ページが、探せない。

…書いていると、今でも信じられないな。

そんな折、たまたま私が仕事でわりと余裕があり、これまたたまたま妻がわりと仕事で立て込んでいたので、私が面倒を見始めた。
それが、切っ掛け。

送り迎えも、はじめ日能研の校舎までしていたから、ついでにどうしたらいいかとか少し相談していたんだよね。
今思えば、授業終了間際に軽く小話をとか、邪魔極まりない存在だったかもしれない。

もし、あのときの仕事の具合が違っていたら、『こちら側』には来なかった可能性もある。
あまりそうはならなそうな気もするけれど、
そういう人間なら、昨日の「比、とりあえずうまく進んだ」ってだけの内容が3000字オーバーはしねぇよ。
一応、どんな特徴があるのか、それぞれ考えてみる。

まず自走のメリットとして、子ども自身に「勉強をするためのスキル」が付くかもしれない。

小学生でそのスキルがしっかり身に付いた上で、自走で授業についていけるなら、中学以降でも安定して成長できるのではないだろうか。

他のメリットとして、自立は促せるかな?
自分の人生を自分で決める、というような。

そういえば時代も塾も違うものの、妻は完全自走だったらしい。
そんな妻は高校以降、それほど珍しくはないけれど、さりとてあまり一般的とも言えないキャリアを積んでいったようだ。

デメリットとして、中受では圧倒的に不利だ。
どんなに出来る子であったって、所詮は小学生。

大人が隣で教える、分からないことがあれば聞ける、という環境なのとそうでないのとでは大きな違いがある。
それに、どういうところが出そうだとかのヤマ、テスト結果をどう見ればいいかの振り返り、成績を伸ばすためにどうすればいいかのノウハウ。

親の方は控え目に言って義務教育までは経験しているわけだし、その他の経験も積んできているんだから、小学生よりは勝るだろう。

そういう、子どもの裏に隠れたサポーター達がいる中で、小学生が完全な自走で中受に挑んでいくのは厳しすぎる。
ましてや、我が家の子どもというと、『悠久』の彼、だ。

そんなわけで、我が家的にはこの要因がノックアウトファクター。
おそらく自走の形態は、可能な限り選ばないと思う。

まぁ、それでも、今の私は、中受を今の生活のゴールに考えているからこその結論だけれど。

伴走

翻って伴走。

メリデメは自走の裏返しだ。

つまりデメリットは、「自分で勉強するためのスキルが身につかないのでは」と「子どもが自立しないのでは」ということになる。

答えは、「だろうな」だ。

ただ、私にとってはこれらを今、目標、というか息子達への期待としては考えられない。

だってさ、自分を振り返って、勉強するためのスキルなんて身に着けたの中学以降だよ。

小学生どころか中学生になったって、塾に通うまで机に向かう日の方が珍しかったもの。
それなのに、小学生の段階で「自分で勉強して欲しい」なんて口が裂けても言えない。

ましてや今、長男くんがやっている問題は、当時の小学校よりも明らかに難しい。

というか、理科なんて中学生向けの塾で教えてた内容だしな。
歴史は小学生でやったかもしれないけど、年号や人名まではやった覚えがない。
国語・算数は、もう言うに及ばずだ。
ベクトルが少し違うかもしれないけど、算数は中学の数学より難しい気もする。

だから、「勉強するためのスキル」なんてもん、中学以降でゆっくり試行錯誤しながら身に着けてくれば十分。

それに、「自分で勉強するためのスキル」自体、最終的には必要になるかもしれないけど、学生が自分だけで身に着ける必要も感じていない。

私がそんなの身に着けたのは、おそらく中学を超えて、せいぜい高校で通った予備校で、だ。
大人だって何かを学ぶにあたって、何でもかんでも自習ではなくて、セミナーや資格学校に通うという選択肢だってある。

大体、多くの学生は塾に通うという中受。
中学2年まで塾に行っていなかった私には、塾に行っている時点で「自走」というのがよく意味のわからない概念でもある。

なので、小学生に対して、「自分で勉強をするスキル」なんてものを望む理由はないと私は思っている。

子どもの自立に対しても、同様だ。
長男くんから、「ボクの自立についてどう考えているか?」と問われても、「まずは自分だけで日々の支度ができるようになるところから始めようか?」と返して終わり。

そういった点から、少なくとも今の息子達に対して思うことは、「勉強の自走なんて、中学になってからやってくれ」だ。
そこまでは全力でサポートしてあげるし、中学に行ってから、手の離し方を考えればいいや。

楽しい伴走

とまぁ、そんな伴走を始めた切っ掛けや、メリットとデメリットを比較検討して考えていたけれど。

今、私がこんな生活をしているのは、何より楽しいからだ。

元々テスト結果から勉強計画を考えたり、テストやテキストの分析をするのは好き。
指導力はともかく、勉強を教えるのも好きだ。
息子達を勉強漬けの生活にしたのも私達親自身だけど、それでも良い成績が取れれば彼らも楽しいだろう。

結局、私にとって伴走は趣味や娯楽に近い。
私が頑張ったって上手くはいかないかもしれないけれど、だからこそ真剣に取り組むほど面白い。

それに、そんなに経験が多いわけではないけれど塾や家庭教師で指導してきた上で、この子達に勉強を教えるのは、ものすごく楽しい。

「自分の子だから」という点は差っ引くことができないとしても、教えたことをドンドン吸収していってくれる相手にモノを教えるのは、何よりも面白い。
難しくてよく分からないことを理解してくれたときは、たまらなく嬉しい。
出来なかった問題が出来るようになっているところを見ると、とても誇らしい。
そんな難しい問題を数ヶ月経ってスラスラと解いていくのを確認できると、素直に感心するし、もう幸せになれるレベル。

なので、「伴走を止めたい」なんて思うわけがない。
もうこの中受活動は、ほとんどオレのエゴだからな。

「子どもの将来を考えて」とか「少しでもいい教育を」とか考えていないわけではないけれど、この伴走という行為そのものが楽しくて仕方がない。

「もう今日は勉強見ない!」なんていう雷に満ちた日もないわけじゃないけれど、きっと、こうやって一緒になって中受に取り組んで、息子達に勉強を教えられた毎日は、振り返って良い思い出になる気がする。
たとえ結末がどうであっても。

だから、やることやっとかないとな。
とりあえず、こんな結論は決まっている無駄なこと考えてないで、意味段落を分ける問題はどう解けばいいのか考えないと。