長男くんと国語の勉強

2021年10月21日木曜日

国語 社会 復習 勉強方法

社会と国語の復習

なんだかんだで今期一番安心して復習出来る教科の組み合わせ。

社会は地名自体は前期に覚えたものばかりのようで、そこに産業がプラスされるだけ。

国語の勉強は見ていても大分しっかりしてきた。
ちょっと驚くほどに。

そんなことを思うと、二月の勝者の代表的なパワーワード、「狂気」ってなんなんだろ?
導入がそれで、気になったから読み始めたけど。

社会

今回は信州?長野、山梨、岐阜。
日本アルプス付近の地名は大体覚えているけど、油断するといつも富士川を忘れる。

今まさに信長の野望でそこで北条家と戦っているのに。
しばらく地名を見ながらゲーム談義。

山脈越えてのルートは設定されていないから、木曽山脈を抜けて武田に攻め入るか、富山から上杉に向かうか、富士川から北条家を破るか。
3方向を同時に展開するのは効率が悪いだろう、とか、信玄が生きている間に武田攻めは厳しくないか、とかリアル軍議をして、普通に富士川という単語が長男くんから出てきたあたりでストップ。
彼にとっての富士川は富士山の近くではなくて、北条家への目印になってしまったけど覚えられたかな?

ときどきそうやって地名は確認するにしても、産業の方は覚えやすいんじゃないかな?
とりあえず自分で勉強できているから放置。

国語

まだまだ続く接続詞。
ここらへんの単元はふくしま式でやった内容に通じるところがある。

国語の中では、問題として問われることが多いだけでなく、読解でも記述でも使う重要な概念だから、みっちりやって欲しい。

接続詞を利用して4つの短文を順番通りに並べろといった問題も出ているようだ。
隣で仕事していると、なぜか、B→D→C→D とか叫び声が聞こえてくる。

いや、D二つはないだろ。
どんだけ強調したい文なんだよ。
Aを仲間外れにしてやるなよ。

そんなことを言うと、これまたなぜか、全部を消そうとする長男くん。

いや、どっちかのDがAってだけでしょ。何も全てをやり直さなくても。

そういうところはともかく、国語の勉強はかなりしっかりしてきたと思う。
あれだけはじめは忘れていた文章読みながらの指示語・接続詞チェックも、日能研の授業でもやっているからか自然とやるようになってきた。

びっくりしたのは、「あれ、チェックすることがほとんどない。簡単な文章だな」とか言い始めるようになった。
そうだね、接続詞がないっていうことは、文章構成自体はひどく単純だってことだね。
語彙を含めた内容はともかく。

接続詞で何を入れろ問題も、何も聞かなくても理由を答えるようになった。
ということは、自分で答えるときも、理由を言葉で考えているんだろう。
小学生に求めるには厳しすぎるかと思ったけど、理由を考えることがきっと国語の勉強の仕方だから、ずっと求めてきたことがもうできるようになってきてしまったみたい。

こんな風に私自身が勉強するようになったのは浪人のときに授業を受けてだから、高校くらいまで出来ないかと思っていたけど。
彼が中高になったらこんなにずっと勉強は見ないし見れないだろうけど、折に触れて伝えていれば大学受験までにはなんとなく身に着くかな、と。
それくらいの気持ちでいたのに。
まぁ、まだ指示語・接続詞レベルとはいえ、随分頼れるようになってきたなぁ。

接続詞を入れる設問が3つのときに横目でちらっと見たら、「たとえば」が2つ入っていたから、まーたやってるよと思って茶々を入れてみた。
いや、お前、こういう問題で設問3つしかないのに、2つ一緒とかそういう答えになることなんてまずないだろ、と。
そうしたら、「そんな理由おかしくない?」と反論されてしまった。


挙句、正解されていた。

ホントごめんなさい。

「狂気」

二月の勝者で出てきた言葉。母親の、と枕言葉はつくけれど。
まぁ確かに作中に出てくる親の一部はぴったり当てはまるような点がある。

はじめは、「小学生のような子どもに過酷な勉強をさせて」という意味でとらえていたけど、なんだか違うような気がしてきた。

リアルに中受の勉強を長男くんに教えはじめて、テキストやテスト問題の分析等をしていたら、正直「こんなの無理だろ」と思うレベルだった。
算数の応用やら本科終盤の問題やら、国語の記述やら、理社の応用問題やら。
私が思っていた「小学生のやるテスト」じゃない。
中高生での授業の理解度確認の小テストにだって、こんな応用問題は出ない。
これが「狂気」かと。

それでも、子どもは慣れてしだいに対応していく。
もちろん、手が全くでないこともありはするものの。
テストの点はともかくとして、長男くんの勉強の仕方はかなり質が高くなってきた。
そして、問題が解けるのであれば、本人はけっこう楽しんでいる。
文章を読んだりすることも、時間制限に間に合うかどうかも。

中学受験ではともかくも、こういう内容で勉強が続けられるなら、どんな大学でも行けるんじゃないかと思うくらい頑張っている。
そんな長男くんを見ていて、結構満足している自分がいる。
だから、今日は勉強している隣でずっと褒めっぱなしだった。

しかし、自分自身を振り返ると。
小学校低学年くらいのとき、音楽・体育・図工あたりの授業を受けていて、漠然と「こういう世界では生きていけないな」と分かってしまった。
二男だったから家も継げない、就職させられるほど家族にコネがあるわけでもない、と子どもながらに分かっていた。
であれば、勉強でも負けていたら生きていけない、というのが勉強しはじめた出発点。
まぁ、多少向いていたというのはあったのかもしれない。
そんなに珍しいことではないとは思うけど、小数と分数の変換を除いて、小学生の間に勉強が難しいと思うことはなかった。
中受もしていない、狭い世界の中では。

当時はまだ学歴社会だのいい大学に行ってだのということも普通に言われていたので、「いい大学」に行ければいいと思っていた。
トップになる必要はないけど、自分の希望を叶えられる程度には勉強ができないといけない。
勉強が好きかどうかなんて関係なく、この道でしか生きられないのだから、目標は達成しないといけない。
結果が出ない努力なんて時間の無駄。
努力が尊いなんて言われても、成績として評価されるのは試験の結果だけ。
不正以外のあらゆる手段を使って結果を出さないといけない。
負けたら即死、というわけではなくても、おそらく希望する人生が送れなくなるのだから。
中高の勉強が出来て認められるのは、中高の間だけ。
分かりやすい競争の場が与えられた中学以降はそんな気持ちで勉強していた。

二月の勝者を読み直すと、子どもの絶対的な成長を見守れず、相対的な成績に固執して、そちらの目標達成を無理に強いるのが「狂気」なのかと改めて思った。
もしそうなのであれば、なんのことはない、私自身は中学の頃から狂いっぱなしだ。
競争社会の中で生きていく力を身に着けるのが目的なのに、自分の絶対的な成長になんて興味がなかった。

しかし、この考えが間違っていて、さらなる「狂気」がまだあるのだろうか。
長男くんが勉強しているのを見て満足している今の気持ちも、これから変わっていくのかなと思うと、怖いもの見たさで少し楽しみでもある。